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沢の中に一の鷺(さぎ)ありて、者を窺(うかが)ひて立てり。荘子、これを見てひそかに鷺を打たむと思ひて、杖を取りて近く寄るに、鷺逃げず。荘子、これを怪しんで、いよいよ近く寄りて見れば、鷺、一の蝦(えび)を食らはむとして立てるなりけり。然(しか)れば、人の打たむとするを知らざるなりと知りぬ。また、その鷺の食らはむとする蝦を見れば、逃げずしてあり。これまた、一の小さき虫を食らはむとして、鷺の窺(うかが)ふを知らず。
その時に、荘子、「鷺、蝦、皆、我を害せむとする事を知らずして、各々他を害せむ事をのみ思ふ。我また、鷺を打たむとするに、我に増さる者ありて、我を害せむとするを知らじ。然れば、我逃げなむ」と思ひて、走り去りぬ。これ、賢きことなり。
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「荘子、見畜類所行走逃語(そうし、ちくるいのしょぎょうをみてはしりにげたること)」という題で、平安時代末期に成立した「今昔物語集」に収録されているお話です。
私なりに口語訳をしてみますと・・・
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沢の中に一羽のサギがいて、何者かをのぞき込んで立っていた。荘子はこの様子を見て、こっそりサギを打ってやろうと思って杖を手にサギの近くに寄ったのだが、サギは逃げなかった。荘子は不思議に思って、さらにサギに近づいてみると、サギは一匹のエビを狙って食べようとしていたのだった。だからサギは、後ろから人間が打とうとしていることに気づかないのだ、と荘子は理解した。また、そのサギが食べようとしているエビを見ると、そのエビも逃げようとしていない。これまた、エビも一匹の小さな虫を食べようとして、サギが自分(エビ)に近づいていることに気づいていないのだ。
すると、荘子は「サギ、エビ、みな自分に危害が加えられようとしていることに気づかないで、それぞれ自分が他の者に危害を加えることだけを考えている。自分(荘子)もまた、サギを打とうとしていたけれども、自分よりも強い者が現れて、自分に危害が加えられようとしていることを自分が気づいていないだけなのかもしれない。それならば・・・逃げるしかない!!」と考え、荘子は走ってその場から逃げ去った。この荘子の行動は、賢いことである。
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こんな感じでしょうか。
自分のことを客観的に見ることが出来ないものたちの連鎖を描き、その構図に気づいてしまった荘子が「ミイラ取りがミイラにならぬよう」その場(構図のなかにいる自分)から走って逃げていく、という愉快な(?)内容。
人間は自分のことを冷静かつ客観的に見ているようで、実際には意外とそうなっていないのかもしれない。そんなことを教えてくれる古文でした。